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12. 低バック液体シンチレーションカウンタのマイクロドージングへの応用

2 β線波高スペクトル

ほとんど全ての読者にとって見るのも聞くのも新しいtechnical termと思われるので,ここで,ヒト尿の内因性放射性核種と関連させてβ線波高スペクトルβray pulse height spectrumを紹介しておこう.
前節で解説したように,β線は連続エネルギーを持っている.崩壊エネルギーの高い崩壊ほど多数の光子を発生させる.従って,横軸にその崩壊により発生した蛍光のエネルギー(光子の数に比例)を表すチャネル番号,縦軸に該当するチャネルで計数されたパルスの個数をプロットすると一種のスペクトル,β線波高スペクトルが画かれる.

ヒト尿のβ線波高スペクトル
百聞一見に如かず.まず身近な試料のスペクトルを見て頂こう.
Fig. 1は内容積145mLのバイアルを用いて30 mLの水(SP-1),30 mLのヒト尿(SP-2),30 mLのヒト尿に 1Bqの14Cを添加した試料(SP-3)をLow BG LSCを用いて100分間計数して得られたβ線波高スペクトルである.この場合,人体の構成成分や食物中の放射性核種の量を考えると,検討対象にしなければならない放射性核種は14Cと 40Kだけである.これらの図において,横軸はチャネル番号,縦軸は10 chごとの計数をまとめた(スペクトルを単純化するために)計数値である.SP-1では,500 ch付近から低波高側に向かってパルス数が急増加しているほかに,わずかではあるが全領域に渡ってパルスが認められる.これらは機械のノイズによるものである.SP-2では, 500 chから低波高側に急上昇するパルス,500 chから1000 chに渡ってプラトーを形成し,これより3000 chに向かって緩やかに下降していくパルスとからなることが分かる.SP-3では,低波高側のみが顕著にエンハンスされた形になっていることから,500 chまでの低波高側のパルスは主として14Cに(一部,40K由来の低波高パルスも流れ込んでいる),500 chより高波高側のパルスは全て40Kに由来するパルスであると結論できる.

Fig. 1 Pulse height spectra (30 mL)

Fig. 1 Pulse height spectra (30 mL)

Fig.1を解析することによって内因性14Cと40Kのおおよその量を求めることができる.いま,50〜500 ch のパルスは14C,それ以上は40K のパルスとして考察する.40K のパルスは3000 ch以上でも存在するが,図より明らかなようにその数は僅かで無視しても大きな誤りにはならないと考える.尿正味のβ線波高スペクトルは, SP-2 からSP-1を差し引くことによって得られる.14Cのパルスの数は,この波高スペクトルにおいて50〜500 ch間の波高分布曲線下パルス数から14Cの最適ウインドウに流れ込んでいると考えられる40Kのパルス数(500〜1000 ch間の波高分布曲線を低波高側に外挿することによって近似的に求められる)を差し引いた面積と看做すことができる.他方,40Kのパルスの数は,50〜3000ch間の波高分布曲線下の面積から14Cのパルスを除いた面積に相当する.SP-2から14Cと40Kの割合はおおよそ1:30である. SP-3から,40Kの放射能は添加された14C(1Bq)に対して約3倍になっている.すなわち,内因性40Kと14Cの量は,それぞれ3 Bq/30 mL(100 mBq/mL urine),0.10 Bq/30 mL(3.3 mBq/mL urine)前後と見積もられる.これらの推定値は成書に挙げられているカリウム及び炭素量から算出した値(それぞれ,72 mBq/mLと2.8 mBq/mL)と符合していることは,この計算過程が大筋において正しいことを示唆している.
ここで強調しておきたいことは,LSCでは試料サイズをAMSに比べて1000倍も大きくできる効果である.SP-3は,14C 1Bqを添加した尿,すなわち2 dpm14C/mL human urineのスペクトルである.AMSの定量限界は1 dpm14C/mL urine前後といわれているが,30 mLも計測できるLow BG LSCでは,この濃度でスペクトルとして14Cを捉えていると共にスペクトルの面積強度から14Cを定量できる事実である.この場合,研究者の負担は,尿試料をシンチレータに混ぜ,機械にセットし100分間放置しておくだけである.AMSに比べて操作・経費ともに桁違いに簡単・安価で,しかも極めて明確な情報を提供している.なお,スペクトルを取り出す過程については次節で解説する.なお,標準サイズのバイアルを用い,各種の条件下でとられたβ線波高スペクトルはFig. 3に,1Bq14C以下の計数率値の直線性を標準サイズのバイアルを用いて調べた試料のβ線波高スペクトルはFig. 5 に紹介する.
ヒト尿には100 mBq/mL の40Kが含まれている.
ヒトは1日当り約1Lの尿を排泄しているので,我々は毎日約6000カウントもの放射能を,何の規制も受けずに垂れ流しにしていることになる.これは,まさに驚きの発見である.この事実を冷静に考えると,MDで服用することになる1μCiの 14C標識薬物による放射線障害はまさに杞憂というべきであることが分かる.

計数効率とバックグラウンドの妥協の問題
日常,何事も機械まかせであまり気にかけないで扱われているが,計数効率(Eff)とBGの妥協の問題がある.波高選別器(後述)のウインドウを広げればEffは高くなるが,それに伴ってBGも高くなる.いま,ある試料を,Eff 90%,BG 20 cpmで計数した場合とEff 80%, BG 10 cpmで同じ時間計数した場合,どちらが高精度か?を考えてみよう.放射能の計数精度は,Effの1乗,計数時間の1/2乗に比例し,BGの1/2乗に逆比例して向上する.放射能の測定装置(方法)の良し悪しはEff2/BG(figure of merit,FOM)に基づいて論じられている.この設問で,前者のケースのFOMは405,後者のそれは640で,後者の方が優れていることになる.また,FOMが最大になるウインドウを最適ウインドウ(optimal window)と称している.このような事情から,MD試料の計数ではグループごとにBG試料とこれに1Bqの14Cを添加した試料も計数処理し,グループごとに最適ウインドウを設定する必要がある.この問題に関わるより具体的な例がTable 1に登場する.

β線波高スペクトルと分子スペクトル
β線波高スペクトルを画かせるのに前処理が一切不要である.
一般論であるが,生体試料を対象とする,ほとんど全ての生化学分析の前半は,圧倒的に大量に存在する夾雑物から目的物質を単離することである.このために,定量に先立ってまず抽出,次に各種のクロマトグフィによる分離という過程が必要になる.分離過程のために多くの時間と労力が求められるのみならず,定量系に到達する物質量が極端に制限される.また,定量系の capacity もせいぜいμmol 以下である.これに対して,前述したようにLSCでMDを行う場合に検討対象となる内因性放射性核種は14C (156 keV) と40K(1.312 MeV)の2つだけで,しかもこの両者のエネルギーは大きく異なるので容易に分別定量できる.このことが,AMSに比べて1000倍も大量の試料を何の前処理もなく14Cを直接測定できる根拠である.信じがたい話であるが,実際にこれが可能なことを示すのが Fig. 1である.前処理が不要という点では,このホームページでも紹介した 13C NMRと似ているが,14Cβ線波高スペクトルの感度は桁違いに高い.(7. 9 C-13 標識-核磁気共鳴トレーサー法の提案
分子スペクトルとの相違点を理解しておくことも大切である.
生物有機化学では紫外・可視吸収スペクトル,蛍光スペクトル,赤外吸収スペクトル等,各種分光分析法が用いられている.Fig. 1で横軸を波長,縦軸を吸光度と読み代えると,両軸の目盛りの取り方が逆になっているが,Fig. 1はこれらのスペクトルと同形になる.ここでは,大きな相違点を認識しておく必要がある.それは,有機化合物分子のスペクトルは,10の何乗個の分子が関与して初めて観測されているのに対してβ線波高スペクトルでは1壊変が1パルスに対応していることである.


   
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